「じゃあとっしー、次は『ありがとう』って書いて!」 

居間の床に座っている俺の傍らでゆっくりまりさが目を輝かせながら催促してきた。 
俺が床に広げてある紙に「ありがとう」と書くとまりさはそれをじっと見た後、ペンを口でくわえて模写する。 

「おいおいそれじゃあ『あいがとつ』だ。『り』は右側が長くて、『う』は上の点を忘れるな。そう、そんな感じだ」 



このまりさはペットショップで買ったただのゆっくりだが、ゆっくりとしては賢い個体のようだ。 
最初は俺が新聞や雑誌を読んだり、ペンタブを使っているのを横で見ているだけだった。

よく猫がやるように気を引きたいだけかと思っていたが、あるとき口にペンをくわえて文字を書き出したのだ。 
驚いた俺は時間をかけて50音や単語を教えていった。
今ではいくつかの単語を平仮名で書くことができ、その意味も理解するようになった。
だいたい幼稚園児か小学校1年生ぐらいのレベルだろうか。 

「とっしー、これ見て!」 

まりさが自分で書いた字を示した。読めと言うことだろう。 

「ご、め、ん、な、さ、い。ごめんなさいか。気にするなよ。ゆっくり上手くなればいいさ」 

殊勝なやつだ。 

「ゆっくりが字が書けるってのは、すごいことなんだぞ、まりさ」 

「本当!? 字を書くとゆっくりできる?」 

「ああ、そうだな」 

一通り文字やら絵やらを書いて満足したまりさを、あぐらをかいた足の上にのせて撫でてやる。 
まりさは撫でられている間も 「文字さんが書けるとゆっくりできるんだね」 
と嬉しそうに呟いている。褒められたのがよほど嬉しかったのだろう。 
その時、机の上でケータイが振動している音がした。着信があったようだ。
かけてきたのは職場の上司、用件は休日出勤の要請だった。
 
「取引先でなんかあったらしい。ちょっと出かけてくるわ」 

ペンをペン立てに戻し、スーツを着て身支度をする。 

「えー、今日はお休みじゃなかったの?」 

まりさは残念そうにうつむいた(体を前に傾かせた) 

「まあ、こういうこともある。理解してくれ。飯はいつもの所に用意してある。長引かないと思うから、帰ってくるまで絵を描くなりして待っていてくれ」 

玄関まで見送りに来たまりさに、もう一度念を押す。 

「誰か来ても絶対に出るんじゃないぞ。いい子にしていられるよな? まりさはゆっくりしたゆっくりだから」 

俺が諭すとまりさは 「うん!」 と元気よく返事をした。
一仕事終えて家に帰る頃には暗くなっていた。
ドアを開けると、電気は消えていた。まりさは寝たらしい。
 
ゆっくりにも室内灯を操作できるように、紐を床スレスレまで延長してあるのだ。 
玄関の壁際の電灯のスイッチに手を伸ばすと、 「じゃーん!」 というまりさの声とともに電気がついた。 

「おかえりー!」 

「ただいま。ん? うっ、うわあああああああ!」 

明らかになった部屋の惨状に、俺は思わず声を上げた。 
部屋中の床や壁の低い位置に文字がびっしりと書き込んであったのだ。 
さながら呪術に用いられた一室のようになっている。 

「これ、お前がやったのか!」 

「そうだよ! ゆっくりできる?」 

ゆっへんと胸を反らすまりさを一瞬蹴り飛ばそうと思ってしまったが、思いとどまった。
言い含めておかなかった俺にも非がある。 
喉まで出かけた罵声を飲み込み、ため息混じりに言った。 

「確かに字を書くのはいいことだ。だが、紙以外の場所に書くのはいけないことなんだよ……」 

「ゆゆっ!?」 

問題なのはここがアパートだということだ。
こんな落書きを残したまま大家に引き渡したら、敷金が帰ってこないどころか損失補償を払わされることになるだろう。 

「ごめんなさい! ゆっくりしないで消すよ! ぺーろぺーろ!」 

文字の書かれた壁に舌を這わせるまりさ。だが、文字は一向に消えない。
不幸にも、まりさが使ったのは油性ペンだったのだ。 
テーブルに目をやると、ペン立ては倒れて、ペンが床にばらまかれていた。 
俺がペンを戻したのを見ていたのだろう。
そして、ペン立てには油性ペンも混じっていて、それを使ったのだ。 

「もういい。今日はもう寝なさい」 

俺の断固たる口調から苛立ちを感じ取ったのだろうか、まりさは言う通りに寝床に戻っていった。
さて、部屋中に書かれた文字をどうするか。カーペットは買い換えればいいし、家具類は俺の私財だから問題ないが、壁や床に書かれた文字は大問題だ。 

「たしかラッカーシンナーが残っていたはず」 

DIYに使ったシンナーの容器を取り出し、壁や床に使っても大丈夫なことを確認して文字を消す作業に入った。 
よく見ると文字は俺の名前や「だいすき」「ゆっくりしていってね」といった言葉が大半を占めていた。 
まりさが俺を喜ばせようと書いたのだ。 それを自分の手で消すのは心苦しい作業だった。 

「なんで怒鳴っちまったんだろうなあ。明日仲直りすればいいか」 

半分ほど消し終えてから時計を仰ぎ見た。こわばった体が痛む。 

「だいぶ遅くなったな……。俺も寝よう」 

ラッカーシンナーの容器に蓋をすると、俺は寝室に戻った。
翌朝。寝室に漂う異様な匂いに気づいて目が覚めた。 

「この匂いは、まさか!?」 

急いで居間に行くと、悪い予感は的中していた。 
部屋中にシンナーの匂いが立ちこめ、その中心にはまりさがうつぶせに倒れて餡子を吐いていた。
側にはほぼ空になったシンナーの容器があった。 
昨日の晩より文字が減っている。シンナーを使っていた俺を見ていて、自分で消そうとしたに違いない。 

「まりさ! まりさ! くそっ」 

窓を全開にし、台所の換気扇を付ける。 
抱き上げたまりさはずっしりと重く、白目を剥いて「ゆ"っゆ"っゆ"っ」と声を上げていた。
非常に危険な状態なのは一目で分かった。 

「病院に連れていかないと……!」 

勤め先に連絡を入れた後、俺はすぐさままりさを抱えて車に乗り込んだ。

「一命は取り留めました」 

ゆっくり診察所の医師の口調は重かった。 

「ですが、元に戻ることはないでしょう」 

医師はそう言いながら、言葉を詰まらせている俺に1枚の蛍光板を示した。 
それはCTスキャンでゆっくりを輪切りにしたものだとのことだ。 
ゆるやかな楕円の体の中に黒い餡子が詰まっている。
その餡子の中に他の餡子とは違うように見える物があった。 
医師はそれを指で示しながら 

「これが中枢餡――いわばゆっくりの脳です」 

医師が中枢餡と言った部分は虫が食ったようにスカスカになっている。 

「通常はほぼ完全な球なのですが、まりさちゃんの中枢餡は急性シンナー中毒でかなり損傷しています」 

「ええ、そうみたいですね」 

やっと出た言葉がそれだった。自分でも驚くほどしゃがれた声だ。 

「それで、退院はいつ頃になりますか?」 

「今日にでも連れて帰っていただいて構いません。きっと、残りの時間をあなたと過ごした方がまりさちゃんのためでしょう。入院させてもよろしいのですが・・・」 

「いえ、結構です」 

当のまりさは意識をとり戻したらしく、ケージの中でぼんやりと中空を見つめていた。
見かけは昨日までのまりさと変わりない。餡子を吐いたので少し細くなったぐらいだ。 
あのまりさがもう俺に話しかけることも笑うこともないと思うと、冷水に身を浸すような虚無感に包まれた。
まりさをケースに入れ、診察所のカウンターで診察料を払う。 
看護師の女性――有子と書かれた名札が目に入った――は鎮痛な面持ちで 

「としあきさん、ご自分を責めないで下さいね」 

と俺に言った。その心遣いが嬉しかった。
この日から、狂ってしまったまりさとの生活が始まった。
 
シンナーに中枢餡を侵されたまりさは足りないゆっくりになってしまっていたのだ。 
平衡感覚を失ったのか、逆さまになったり仰向けになったりしたまま、抜け殻のように虚空を見つめ続けて一日の大半を過ごした。 
動きがあるとすれば「ゆー」とか「あー」とかいう声を出しながらわずかに転がるぐらいだ。
反対に、何かに取り憑かれたように喚き散らしながら跳ね回ることもあった。
保身を考えずに壁にぶつかって大怪我をしかねないため、そういうときは布テープでクッションに縛り付けて置かなければならなかった。 
口角からは絶えず涎を垂らし、排泄も自分ですることはできずに垂れ流しなった。
ケースの中でうんうんやちーちーに塗れたまりさをきれいに拭くのが、仕事から帰った俺の日課となった。 
餌も自分では食べることができないため、俺がスプーンで口に運んで食べさせた。 
そんなまりさも、時折思い出したように明瞭な発音で声を上げることがあった。 

「ゆっくりしていってね!!!」 

一抹の期待を込めて話しかけてみたこともある。 

「まりさ、まりさ! 俺が分かるか?」 

「ゆっ、おにいさんはとってもゆっくりしてるね!」 

だが、話す内容は意味があるようで無く、会話が成立することはなかった。 
俺の名前すら忘れてしまったのか。まりさ。
そんな日々のおわりは、ある朝突然訪れた。 

朝日が差し込む居間に行くと、空のケースが横倒しになっているのが目に入った。
まりさを探して首を巡らせると、テーブルの側に伏しているのを見つけた。 
見たこともないぐらい扁平に広がって黒ずんで事切れている。 
その傍らには紙とペンが転がっていた。 

ゆらゆらと震える筆跡で、文字の上から何度も書き直されていたが、かろうじて判読できた。

「としあき」 

「ありがとう」 

「ごめんなさい」

【おわり】

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挿絵:ちえんあき